die einfache Fahrkarte

wallet

 横須賀に雪は降らない。降ったとしてもちらついたかな、という程度で、東京は大雪で交通機関が混乱しているというニュースが飛び込んできても、たいていの場合横須賀ではただ雨が降っているだけでまったく臨場感が無い。だから今日も油断してたいした防寒なんかしていなかった。
「これは降りすぎだろ」
「ああ。やはりニュースを信じるべきだった」
 乗った横須賀線が大船を過ぎたあたりから景色は一気に白くなり、戸塚は既に埋もれていた。小さく無い後悔と焦りが生じたのを山中と速水はお互いに見てとったが、そこで顔を見合わせたところでもう遅いのは分かっているから、一瞬目を合わせた後はわざとらしくゆっくりと目を逸らしてシートに背を預けた。京急が動いていないという時点で覚悟するべきだったのだ。
 予定通り横浜で降りて、そのホームで雪に囲まれた。多くの人が乗ったり降りたりひっきりなしのはずなのに、ホームで踏んだ雪は白さを残していた。吹きっさらしの横須賀線ホームは地下に降りていく階段がひとつしかなくて、しかも運の悪いことに遠かった。
「まあでも、無事に着いたし」
 止まっている、とニュースになっていた東海道と横浜線はかなり乱れていたようだったが、横須賀線は途中何度か赤信号があっただけで殆ど通常運行だった。速水はコートのポケットに手を突っ込んで立ち尽くしている山中を振り返った。
「着いたは良いが、動きようが無い」
 買い物でもしよう、ついでに雪も楽しんでこよう、横須賀にいたら雪は見られないからと、かなり軽い気持ちで横浜まで出てきたが、風も強くてぶらつくどころではない。橋を渡ってすぐのはずのビックカメラも霞んで見えたし、何か面白いものを探そうと言われていた東急ハンズはたどり着ける気がしない。そして地下街は恐ろしく混雑していた。大雪だとニュースになっているのだから、どうしても出かけなければならない学生や会社員以外は家でおとなしくしていればいいのに、何故平日の昼間にこんなに買い物客がいるのだろう。自分もその一員であることを棚に上げて、山中は憮然としていた。
「地下道があるだろ。そごうと三越、どっちに行く? あ、高島屋ならこの上」
 あまり気にした様子も無く速水は山中に問いかけた。せっかくの休みを気分転換で出てきたのだから、大雪というなかなかない状況も楽しんじゃえばいいじゃない、と速水はとっくに気持ちを切り替えているようだった。そごうと三越は反対側の地下街を抜けていかなければならないから、往復すると1キロくらいになるぜ、と笑う速水に、普段デパートなど行かない山中はどちらでも良いとやはり憮然としながら答えた。
「なんだよもう、お前がちょっと良い財布が欲しいって言うから来たのに」
 さすがに気を悪くしたらしい速水が、眉を寄せながら言った。しかしすぐにまた明るい笑顔を見せ、じゃあそごうにしよう、あの上からは海が見えるんだと言って勝手に歩き始めた。こんな天気の日でも見えるのかと訊く暇も無く、ごったがえした駅は高いほうである身長の速水もいとも簡単に雑踏に紛れ込まれせてしまい、山中は早足で速水を追った。構内は工事中で少し暗く、雪のせいで濡れていた。
 そごうの前には人だかりが出来ていた。時間になると時計の文字が反転して人形が現れ、くるくると回りながら踊り「it's a small world」が演奏される。長針が止まる12と、そのとき短針が指している数字からは人形が現れないから、正しくは12種類の人形のダンスがあるのだが、基本的には一時間おきに同じ曲が流れるだけだ。それでも根強い人気があり足を止めるひとは多い。
「『小さな世界』ね……あと5分も無いから聴いていこうよ」
 速水はこういう他愛無いことが好きだ。そう横浜を訪れるわけでもない山中が、ただこの混雑に辟易しているのを分かっているだろうに、分かっていて無視をする。気の利きすぎる副官だと、苦笑交じりに、だが嬉しそうに深町が自慢していたと、山中は海江田から聞いていたが、感心するような口調で言う上官に、速水は確かに気の利く男ではあるが案外無神経なのだと思いつつも、失礼ながら少々大雑把なところのある深町艦長には合うでしょうねと答えたものだ。海江田は笑っていた。
 小さな世界か。
 山中は時計の作る小さな世界を思った。こんなささやかな仕掛けが、多くのひとの目を輝かせて一様に上を向かせている。ほんの短い時間だが、同じ時間と同じ微かな興奮を共有させている。こんな些細な仕掛けと短い音楽なのに。決して広くはなく、天井があって開放感の無い広場だけれど、少し耳障りな高い音が届く限りに、確かに小さな世界が存在していた。そして僅かな違いに過敏になっていがみ合う現実を思った。
 余韻を残さず演奏は終わった。それまで何かを確実に共有していたはずの人々が、いっせいに無表情になって立ち去っていく。名残惜しそうなのは子どもだけで、もう思い残すことは無いとばかりに大人は時計に背を向けた。その切り替えが露骨過ぎて、山中は嫌悪を感じた。
「なんだよ。案外、気に入ってんじゃん」
 面白いものを見たという表情で、速水が山中を見ていた。パフォーマンスが終わっても、時計を見ている姿を少し不審に思ったのかもしれない。
「俺はさ、あの一体感が結構好き。でもって終わったあとの寂しさって言うか虚しさって言うか、今までの一体感はなんだったの? みたいな喪失感もわりと好き」
 現実が凝縮されてる感じじゃない?とエスカレーターを延々上りながら、速水は山中に喋った。そごうは入ったところが地下2階で、目当ての5階紳士小物売り場は予想以上に遠い。ただ突っ立っているだけなのに、右側を開けて乗ったエレベーターの前にいる速水は上機嫌に見えるが、山中はすっかり疲れていた。
 紳士小物売り場に着くと、山中がフロア全体を見渡している間に速水はさっさと商品の吟味を始めていた。あれもこれもと手にとってはいじりまくっている。
「山中。色とか好みは無いの?」
「いや、特に。普通のでいいんだが」
「うーん。普通って難しいんだよな。黒か茶か、つや消しかぐらいは決めろよ」
「そう言われてもな……普通で良いんだ、普通で」
 それじゃ分からないって、と言いながらも速水は色も形も雰囲気も、オシャレでちょっと素敵、とは違ういかにも誰でも持ってます風の何の変哲も無い財布をいくつか寄越した。それは今まで山中が使っていた二つ折りの財布とよく似たようなものばかりで、それを見て山中は思わず微笑みをこぼした。選ばせといて笑うのは悪かったかと速水の顔を見たが、山中のその笑いを見たのか見ていないのかもうそっぽを向いていた。
 手渡された財布はどれも手触りの良い上質の牛革で、新品なのに手に馴染んだ。その手触りが心地よくこのまま何も文句を言わずにこの男が選んだものを買おうと思った。そうでなければ連れ立って来た意味は無いし、どうせ最初から彼が選んだもの以外を買うつもりは無かった。適当にその中からひとつ選んで少し高く上げてみせた。
「これに、しよう」
「決めるの早くない? お前自分で何も見てないだろ」
「良いんだ。お前のセンスに任せるつもりで来たんだし」
 ふぅん、と言いながら速水は手元にあったもう一つをひらりと振った。今、自分が選んだものとほとんど同じそれを、速水は開いて山中の手に乗せた。選ばれなかった他の財布はいつの間にか速水の手に移っている。怪訝そうな顔を向けると、ちょっと機能が違うのだと言われた。
 確かに、後から渡された方はパスケースを兼ねており、カードを入れる場所が多く取られている。
「カード、お前はあんま持ってないだろうけど」
 こともなげに言うが、山中が選ばなかった財布の別バージョンは手に持っていない。きっと最初から山中がどれを選ぶか分かっていたのだろう。速水はやはり気遣いのひとで、長く友人をやっているがこういうところで間違えたためしがない。
「まあ、そうだが。でもこれは良いかもしれない」
 山中は必要以上にその財布のカード入れを触った。適度に柔らかく、たっぷりと入りそうなカード入れと小銭を多く入れてもみっともなく膨らんだりしなさそうなデザインが気に入った。
「早く買ってこいよ」
 さっき決断が早すぎると言ったその舌の根も乾かぬうちに、つまらなさそうに速水が言った。気分屋なんだよなあ、と山中は少々呆れながらもお礼のつもりで肩を軽くたたいてレジへ向かった。
「だって、男二人で仲良くお互いにプレゼント買うみたいにしてるのって、変じゃん」
 海を見よう、海、と手を引かんばかりに急かしながらの台詞には合ってないだろと思いつつも、促されるまま屋上へ出た。やっぱり雪は積もっていたが幸か不幸か閉鎖ではなかった。閉鎖だったらこんな寒い思いをしないですんだのだが。
 太陽の塔は雪に覆われ、輝きを失っていた。少し弱まった雪が屋上の風に舞って、コートをどんどん白くした。くすんで汚れた海が確かに見えたが、空の嘘臭い灰色と区別がつかずだたっぴろい未開発の埋立地と同じみすぼらしさだった。他に客は誰もいなかった。率先して来たはずの速水が寒いとわめきだすまで、山中は海を見ていた。

 飯でも食って帰るかと、遅い昼飯のような早めの夕飯のようなものを求めて雪の中をさまよい、ラブホテル街の焼き鳥屋に入った。まだ飲むには早い時間にも関わらず、速水はとりあえずビールを注文した。乾燥する冬にビールは合うが、今日は雪だ。しかしあまりの自然さと素早さに、山中は何も言えずそのまま無意味に乾杯に付き合った。
 特に何か話題があるわけでもないのに、普段寡黙な山中は珍しく良く喋った。箸と杯が進んで腹が落ち着いてきたところで、山中がぽつりと呟くように遠慮がちに問いかけた。
「お前、何があっても深町艦長について行くか?」
 いつも以上に鋭く真っ直ぐな視線に、速水は一瞬言葉を失った。お前何言ってんの? とか、いきなりマジになるなとか、だったら何だとか、いろんなことが頭に浮かび、だが出てきたのは自分でも驚くほど口だけっぽくて安っぽい、本気で考えて無さそうな軽い返事だった。
「まあ、そりゃそうでしょ」
「絶対か? 必ずか? どんなことがあってもか?」
 そんな簡単に答えるのかと言われるかと思ったが、山中は言葉を変えて確認するように畳み掛けてきただけだった。その、威圧感に気おされながら速水はごく真面目な声を作って答えた。
「ついて行く。あのひとは、俺の全てだから」
「そうか」
 それっきり、山中は黙った。ひとに訊いておいてなんなんだと少し腹立たしく思いながらも、速水は山中の空いたコップに「美少年」を注いだ。山中は口を付けなかった。
 そのまま何も言い出せず、会話が途切れたまま酒も切れて二人は店を出た。横浜駅まで歩く間にすっかり酔いはさめてしまい、ますます沈黙は辛くなった。お互い、何かを言い出そうと口を開きかけては噤む。そんなことを繰り返しながら、でも結局無言だった。
 今日の山中は少しおかしい。そう思っても何かできるわけでもなく、いかにも無力でもどかしかった。友人だと思っている相手の、助けにはなれなくても少しくらいは。だけど考えていても始まらない。山中は、何かを抱えているとき一緒にいる相手として自分を選んでくれたのだ。俺はそれを誇りに思う。
「で? その財布、パスケースにもなっているけど、お前電車もバスも乗らないから定期なんて入れないだろ? 何を入れるんだ?」
 気を取り直し、からかうような口調で速水は山中に問うた。殆ど同じ外見でパスケースのついていないデザインのものもあったのに、山中は明らかにそのパスケース部分を気にしていた。
「そうだな……写真でも入れるか」
「写真!?」
 家族のかな、と思いつつも、山中ってそういうタイプだったっけ、恥じらいのある日本男児を絵に描いたような男のはずなのに、と速水はひどく意外に思った。だが、写真を入れるのなら家族くらいしか無いだろう。こういうところもあったのかと、本気で驚いて山中の顔をまじまじと見た。
「ああ、艦長の」
「うわっ……悪趣味だなお前」
 艦長とは海江田艦長のことだろう。山中が海江田艦長に心酔しているのはよく分かっていたが、財布に写真ってそれはさすがに引いてしまう。さっきとはまた別の意味でこういうところもあったのかと再び、よりいっそう驚いた。速水もまた負けないくらい深町艦長に心酔しているのだけれど。
「冗談だ」
「だよな。うん、せめて俺のにしておけよ」
「馬鹿言え」
 珍しく冗談を口にする山中に、速水は少し自分のペースを乱された。いつも冗談を言ってかき回しているのは速水のほうだ。真面目一筋の山中をからかうのは正直、面白い。外見とギャップがあると速水はよく言われるが、山中は真面目で誠実そうな外見そのままの実直な人柄だ。自分自身のことは好きだけれど、こういう真っ直ぐな性質の山中を、速水は羨ましくまた好ましく思っていた。
 だから、まさか本当に速水の写真を、山中がそこに入れるとは少しも思っていなかった。速水だけでなく、防大の同期の仲間、今まで乗った艦全ての写真を、山中がそこに入れてそのまま帰ってこないつもりだとはまったく予想しなかった。
 本数の少ない横須賀線の青い車両を雪にまみれながら待ち、やっと乗った車内はがらんとしていて外と同じくらい寒かった。なんとなく、殆ど言葉も無いまま車窓を見つめているうちに時間が過ぎ、だんだんと雪が少なくなっていって着いた横須賀は朝と同じく雨が静かに降っているだけだった。
 あの雪の横浜は、まるで現実感が無く、交わした会話も違う世界の話のようで、別次元へ行って帰ってきたような、妙な気分がした。雪に包まれた横浜は、そこだけ切り取られた別の空間だった。
 あのとき何故か渡されたレシートを、思わず受け取ってそのまま自分の財布に入れていた速水は、何も告げずに「小さな世界」をただ見つめていた山中の横顔を思い出して、たいそう忌々しいのにどうしてもそのレシートは捨てられなかった。