die einfache Fahrkarte

He wrote a note left behind.

the captain

「てめえで出せよ」
 深町はよれよれになった汚れた封筒を差し出した。沈む『たつなみ』の機密書類と一緒になんとか無事だった、受け取った時は白かった封筒。 もう、ずいぶんと前に海江田から預けられていたもので、万が一の時に彼の妻に渡す約束をしていた。それを一瞥した海江田は、不満そうにちらりと深町を見た。
「出していなかったのか」
「俺は貴様が死んだとは思わなかったんでな」
「……そうか」
 海江田は少し口を尖らせて俯いた。機嫌が降下している時の海江田の、いつもの仕草に、深町は眉をしかめた。かみさん宛が無事だったことすら奇跡だぜ、と言ってやろうか少し悩むが、あまりにも恩着せがましいのでやめた。
「お前宛のは」
「読んでねーよ」
 死んだと思ってねえっつったろが。そう言って睨みつけると、海江田はふぅとため息をついた。実のところ、引き上げた『たつなみ』から見つからなかったから、読みたくてももう読めない。だが深町はあくまで自分の意思で読まないのだという態度を崩さなかった。
「じゃあ、また書く」
「いらねー」
「書く」
「いらねえっつうの」
「深町」
 少し首を傾げ、真摯な澄んだ瞳で海江田は深町を射た。確実に相手を見ているのに、どこを見ているのか分からないほどまっすぐすぎる視線。深町は結局、海江田の静かなわがままに弱い。小さく舌打ちをしてポケットに両手を突っ込んだ。
「勝手にしろ。だが俺は受け取らんぞ」
「仕方ない、速水くんに」
「あいつを巻き込むんじゃねえよ」
 お前が言うな。
 海江田は露骨に呆れた顔をした。うるせえよ、と言葉にせずに返事をし、深町は顔を背けた。こういう他愛の無いやりとりは、まるで半年ほど時間を巻き戻したように思わせる。ここは横須賀で、『やまなみ』の艦長室で。いつもの、五分後には忘れていそうな些細な諍いだ。
 しかしここはNYの海で、ディーゼルの臭いの無い原潜の中だ。海江田の階級は海将補、深町の制帽は国連の青いベレー。
 近づいたと思った男は、再び遠ざかろうとしている。
「いらねえからな」
「書くよ」
 目を閉じた海江田の、密やかな微笑を視界の端で捉えて、深町は再び舌打ちをした。

executive offficer

「俺のアレ、捨てとけ。お前のやつも処分しておくから」
「……ああ、あいつに、渡してなかったのか」
 一瞬きょとんとした山中が、苦笑しながら困ったように言った。やった宿題を自宅に忘れた子どものような顔だ。山中は時々こういう無防備な表情をする。そののんきな様子に速水は少しイラつき、ぶっきらぼうな口調になるのを自覚した。
「艦長が『やまなみ』乗員は生きているって言うから、渡さないでおいたんだけど」
 謹慎続きで基地を出られなかったのも事実だが。
 生きているならそれに越したことは無い。どんな陰謀にまみれていても。遺書など誰だって読みたくは無いに決まっているのだ。あの、華奢な山中の妻がそれを受け取るときの様子を想像しただけで胸が痛む。
「すまなかったな」
「心がこもってないよ、今の」
 速水はむくれてみせた。『やまと』の中で会った山中も、以前とはまるで別人だったが、海江田を失った山中は、輪をかけて別人のように見える。それを、少しでも昔の山中と同じように扱おうと速水は努めていた。
「それより、ちゃんと捨てろよな。お前に預けといても無駄だし、お前のを俺が持っていても仕方ないし」
 このまま「沈黙の艦隊」に参加する山中には速水の生死など分かるわけもなく、分かったとしても家族に届ける術がおそらく無い。それにもう戸籍上は死んだことになっている山中が『タービュレント』でどうなろうと、知ったこっちゃないと速水は思っている。そして、もし自分が彼女の立場だったらと思うといまさらそんなものは欲しくないと思うのだ。
 過去は振り返らず、なすべきことをなしていてくれればそれで良い。もうすでに許してしまっているのだから。
「俺宛のやつは持っていたいが」
「捨てろ」
 本当はもうどちらも持っていない。『やまなみ』からも持ち出すのも、相当迷った。持っていたところでどうしようもないと思ったからだ。それでも勝手に約束を破るのも忍びがたく、『やまと』までは持ってきていた。しかし退艦したときには持ち出せなかったのでNYの冷たい海の底に『やまと』と一緒に沈んでいるはずだ。そろそろ魚がかじっているかもしれない。
 それをたぶん、速水も分かっていて、それでも捨てろと要求している。
「お前宛のは持っていろよ」
「嫌だ」
 にべもない返事だが、これが速水なりのけじめのつけ方なのだと山中には分かる。お前はやるべきことを見つけたのだろうと、背中を押されているのも分かる。
 深町艦長が、どんなふうにこの男に支えられていたのか分かった気になりながら、「考えておく」と山中は曖昧に返事をした。