die einfache Fahrkarte

junction

 港に停泊中の潜水艦の中にいるやつから「海が見たい」なんて言われてまともな返答ができる人間がこの世にどのくらいいるのか数えてみたいもんだと、勝手に切られた電話の受話器を戻しながら深町は毒づいた。海なんて外を見ればそこらじゅうに広がっているじゃないかと言っても、無駄なのは分かっていたからそうとは言わなかったけれど、いつものこととはいえ海江田のわがままは唐突でかつ意味不明だ。
 海江田からの電話だと知った速水が艦長室を出て行こうとするのを目で制して、なんだよさっさと用件を話せと投げやりに言ったのを正直後悔した。海江田が口にしたのは「海が見たい」「今夜八時に迎えに来い」の二言で、意図の読めない発言とあまりの素っ気無さに、怒り出す前に電話は切れ、怒鳴るタイミングを逃してしまった。
 「じゃあ七時半までに仕事を終わらせないと」
 さも当然とばかりに言う速水のセリフにますます腹が立ち、チッキショウ誰が行くか!と怒鳴ってやったが速水はケラケラと笑うだけだった。うるせえよ、と仕事に手を出すのを断ったが速水はまったく動じず、なんだかんだで結局七時半までふたりで書類仕事に精を出していた。
 「やっぱりふたりでやって良かったでしょう?明日の朝ご飯までには戻ってきてくださいね」
 速水は深町を追い出しにかかり、深町は速水に追い出されたから仕方なく、というふうを装って『たつなみ』を出た。そうでもしなければ深町が出かける口実を見つけるのに苦労すると思いやられているのが丸分かりで、釈然としない思いを抱えたままひょいと『たつなみ』を振り返ると、甲板のハッチで別れたはずの速水が艦橋でひらひらと手を振っていた。深町が振り返ることまでお見通しだったその様子に気恥ずかしさと悔しさがこみ上げる。いつの間にか嫌味なほどに艦長のことを分かるようになってしまった副官を、実はこれ以上の右腕はいないだろうとかなり自慢に思ったりしているのだが絶対本人には言いたくない。それにしても帰りが今夜中ではないと認識されているのは何故だ。俺は朝まで海江田につき合わされるのか。うんざりした気持ちでのそのそと『やまなみ』の前に立つと、遅いと文句をつけながら海江田が現れた。
 「どうすんだよ」
 「海が見たいと言っただろう」
 ぶっきらぼうに聞いてやると夕方の電話と同じ声で同じことを繰り返され、ここも海じゃねえかとついつい小声でつぶやいてしまった。海江田は一瞬足を止めて深町を一瞥したが、すぐにまた背を向けて歩き始めた。なんなんだよいったい、とぼやきながら海江田の背を見やり、何も飲み込めないまま海江田の後ろを追いかけると、進行方向は真っ直ぐ深町の車に設定されているようで、なんで俺の車なんだとますますうんざりした気分になった。
 どこへ行っていいものかちっとも分からず、仕方なく海沿いを走らせたが夜だから海はただ黒くて暗いだけだ。ぽっかりと開いたブラックホールみたいで凪いでいるのか荒れているのかも分からない。海江田は良いとも悪いとも言わないどころか表情も殆ど無く、そんな暗い空間をぼんやりと、しかし食い入るように見つめていた。いいかげん嫌になって適当に車を止めたら、そこは御用邸の近くだった。いつの間にこんなところまで来たのかと深町は驚いたが、だいぶ遠回りだがどうせ鎌倉まで送ることになるのだろうからまあいいかと思うことにした。そうやってなんとなく自己弁護をしていないとこの男の気まぐれにはとても付き合っていられない。
 気に入ったのかどうか不明だったが、エンジンを切る前に海江田は車から降りてしまった。だからたぶんこれでOKだったのだろうと勝手に納得して、深町は海江田を追った。
 波打ち際をゆっくりと歩く海江田は、ポケットに手を突っ込んで俯き加減で、どこかでみた絵画か写真のようだったが、そんな高尚な趣味を持ち合わせているわけでもない深町にはいったい何に似ているのか思い出せなかった。あたってこなかった顎の無精髭を指先で触りながらぼんやりと考えていると、そのうち海江田は砂浜に座り込んでしまい、中途半端に膝を抱えてうずくまった。
 おいおい。
 そんな子どもみたいな姿を見るのは久しぶりで、前回こういう海江田を見たのはいつだったかと記憶の糸を手繰ると、そういや息子が生まれるちょっと前はらしくなくうろたえていたな、などと関係の無いことを思い出した。
 夏とはいえ海辺の夜は冷える。動かなくなってしまった海江田をなんとなく見ているだけだった深町は、小さく舌打ちしていったん車へ戻り、洗おうと思って入れっぱなしだった上着をトランクから引っ張り出した。もう2週間はトランクに入っていただろうその上着は、速水に渡したら露骨に嫌な顔をされそうな代物だったが、他には何も無いのでしかめっ面を覚悟で海江田にかけてやった。
 海江田は、嫌な顔どころか息もしていないんじゃないかと錯覚するくらい固まっていた。ぎょっとして顔を覗き込んだが、冷たく真っ黒な瞳は海を映しているのかそれとも何も映してはいないのか、夜の海みたいに暗くて底なし沼に引きずり込まれいくような、しかもそれを望んでしまいたくなるような危うさだった。
 「海江田」
 名前を呼ぶことしか出来ず、上着をかけたときに触れた肩がすっかり冷えきっているのが、指先から伝わって深町の全身も少しずつ冷やしていった。漏水箇所を直しているうちに冷たい海水が自分をどんどん包んでいって海に飲み込まれていく。忍び込んできた虚ろな誘惑は海江田の普段あまり表に出さない激しさと同じで熱いと誤解するほど冷たい。静かに繰り返されているはずの波の音もまったく耳には入らない代わりに、海江田がすっと瞼を落とした動きがコマ送りで脳裏に焼き付けられた。
 それがまた自分を拒否しているようで、呼びつけておいて本当のところをこれっぽっちも見せはしない態度が深町をいたく傷つけた。他人同士が同じものを同じように見ているなんてことがあるわけ無いと分かっていても。結局そのまま再び名前を呼ぶこともなく深町は距離をとった。
 海江田の背中は雨の中で置き去りにされた自転車よりも寂しそうで、それはいつもにこやかに振舞ってはいるもののどこか決定的な孤独を静かに身にまとっている海江田の、本質のようなものだ。隣に座って肩を抱いたりしてやればいいのかもしれないと迷うが、友達とも違う微妙な距離を保っている自分たちにはなんだか不似合いに思えて深町はただその背中を眺めるだけだった。
 街の明かりが届かない海は暗く、そのくせ空は月も無いのに星が見えない程度には明るかった。星はたったのひとつも降り注いでくることはなく、白いはずの砂浜まで黒く見えてくる。靴の裏からも伝わる砂の感触は、頼りなく曖昧で気づく前に崩れていって壊れてしまう、今の自分たちの不確かな関係そのままだった。深町がかけてやった上着を羽織ったまま、海江田は微動だにせず時間だけが過ぎ、その3メートル後ろで深町は2本、煙草を吸った。
 ぐいと火をもみ消すと、それを待っていたかのように海江田が立ち上がって振り返った。いったい何があったのか知らないが、ここへ来たときの張り詰めた近寄りがたい雰囲気は取り払われて、いつもの穏やかな海江田がひっそりとそこにいた。寄せて返す波が海江田の中に澱んでいた何かを奪っていったのか、とにかく自分はこの男の役に立ったらしいことだけが深町には分かった。海江田がわがままを言い出したとき、深町は訳も分からずにただ海江田を甘やかすのだが、それはその結果海江田の本当にニュートラルな目を見るときの、ゾッとするほどの美しさを独り占めしたいだけなのかもしれない。この男のこんな顔は、たぶん他の誰も見たことは無いだろうと思うと、おかしな達成感と優越感が深町を包んでふたりを外界から遮断する。
 そうして深町は、ただただふたりでいることが海江田の望むことの一部なのだということを、身を持って知りながらかたくなに目を逸らして外の世界に目を向けることが常だった。海江田の考えていることは分からない。それは確かに本心だった。海江田の思いも考えも望みも、深町には一切分からなかった。ただ、顔を見ればなんとなく察するところがあって、それを言葉にするのはとても難しく、「出航前に海江田の顔を見たから分かる」なんて説明で『やまなみ』の行動を予測して艦を動かそうとする自分に速水がキレるのも分からなくは無い。ああいうとき、海江田は山中になんと言って説明しているのだろう。それとも、そんなことを感じているのは自分だけで、海江田は自分の行動など予測の範疇であっても感じて理解することではないのだろうか。
 普段まったく寄り付かないくせに、時おりなぜか懐いてくる海江田を、深町は決して友人とは呼ばない。友達ってのはもっとこう、親しくて気軽なものだろう?だがこいつときたら俺に強いるのは緊張ばかりなんだから。男同士における親友=ライバルだと認識してはいても、海江田を友人だとはとても思えなかった。こんなにも反目しあっている相手が、友人のわけが無い。
 案の定、何も言わずにすたすたと深町の隣を通り過ぎて海江田は車に向かって行った。これからどうすりゃいいんだと思っても、なぜかどうしてもそれを訊けない。きっと友人だったら訊けるんだろうと思うと悔しい気もするが、海江田との無言で過ごす時間は決して不愉快でも気まずいものでもなく、これはこれでいいんだという確信めいた思いがする。
 来た時と同じように助手席に陣取った海江田はいまだ一言も発せず、「海が見たい」の後どうすればいいのか深町をひたすら悩ませた。何を考えているのか海江田は無言を貫き目も合わせようとはしない。かけてやった上着もそのままで、ただほんの少し、口元が微笑みの形をしているように見えた。それだけが来たときとの違いだった。いいかげんにしてくれよ、と心の中で思いっきり怒鳴りつけて、深町はエンジンをかけた。車体と共に世界が揺れる。ふたりきりの。
 「飯でも食うか」
 返事はない。
 もしかしたら海江田は艦で夕食をとっていたかも知れないが、そんなことはお構いなしだ。夕食が終わっているなら次は晩飯だ。海江田が何も言わないのを良いことに、深町は独断で日本酒とお好み焼きのうまい店へ行くことに決めた。
 きっとたぶん俺たちはこうやっていつまでもお互いの事なんか見ずに会話もなくて、それでも同じ位置に並び立つヤツは他には決していやしない。
 信号も無い小さな交差点で鎌倉にも横須賀にも向かわない道へハンドルをきり、無駄にアクセルをふかした。こんなやつ大嫌いだと思いながら。