die einfache Fahrkarte

Catedral

 どうせお互い夜勤明けで基地から行くのに、海江田は現地での待ち合わせをかたくなに主張した。意義は感じなかったが反対する大きな理由も無かったので、深町は了承した。では入口前の噴水で、と念を押して海江田は「やまなみ」に戻っていった。深町は14時開演に間に合う時間を逆算し、予定を副長に告げた。
 サントリーホールは思ったよりも遠かった。本庁からそんなに離れていない、という記憶しかなく、事前に海江田から渡されていたパンフレットを頼りに行程を決めたが、実際に電車に乗ってしまうと退屈で仕方が無い。横須賀を出た頃は自然の多かった景色も横浜が近づくにつれ素っ気無いものに変わり、特に面白いものも無い。日曜の昼の車内は混んでいるとも空いているとも言いがたい乗車率で、日曜なのに制服姿の女子高生が騒がしく深町は眉をひそめた。
 海江田からコンサートに誘われたのは突然だった。お互い勤務予定を教えあうこともまずなく、予定もあってないようなものである職場で、来週どうだといきなり声をかけられたのだった。
「日曜? 暇っちゃ暇だが……」
「オルガンを聴きに行かないか?」
「オルガン?」
「パイプオルガンだよ」
 近所にサイズの大きな服を扱う店を見つけたのよ、と楽しそうに言っていた妻を思い出したが、パイプオルガンには興味をひかれた。オーケストラは何度か連れて行かれていたが、パイプオルガンは聴いたことがなかった。大きい新しいのが出来たのだと海江田は言う。去年は潜っていて関係なかったが今年は陸にいる。暑かったり寒かったり気まぐれな春だ。休みの日に着るものには困っていたが、チケットを無駄にするのは悪いような気がして深町は諾と答えた。
 スーツを着てくるべきだったか、と深町は最寄り駅に着いてから思った。海江田は意外に気分屋だ。どこで機嫌が上下するか分からない。顔を合わせた瞬間に不満顔になるのを見るのは避けたかった。その後が面倒で堪らないからだ。 噴水そばの花壇の端に、海江田は腰掛けていた。スーツではないことに深町は安堵した。
「深町」
「おう」
 早いな、まだ開場もしていないのに、ともっと早く来ているくせに海江田は感心したように言った。闇に巣くう生活をしていると、穏やかで明るい太陽の下にいる海江田は別の生き物のように見えてくる。光を反射する噴水の細かい水滴が、海江田の周囲を輝かせていて、深町は目を細めた。それに何か海江田が反応する前に、腹が減ったと宣言した。
 コンサートの後にうまい店へ連れて行く予定だと告げられ、それでも腹が鳴ったりしたら迷惑だろうから開場したら中のカフェで一息つこうということになった。本当はたいして腹は減っていなかったので、深町は不承不承を装い、夕飯は期待しているぜと恩着せがましく言いながら開場を待つ列へ向かった。
 左隣に並んだ海江田からチケットを手渡された。二人で並ぶとき、深町はあまり考えていないが、海江田は右に来たり左に来たりする。さりげなく入れ替わろうとしてもまたいつのまにか逆に変わっているので、海江田には何か理由があるのだろうと思っているが、訊いてどうなるものでもないので訊いていない。ただ、ああ今日は左にいたい気分なんだろうなと海江田を見た。
「なんだ?」
「いや、今日の演目か演奏者に対してまた一席ぶつんだろうと思ったんだが」
「お前のための解説なんだがな。お前予習してこないだろう」
「どうせ開演前にお前がうるさく語るのに、わざわざ自分で調べたりするかよ」
 海江田は分かりやすくふくれた。
 その不機嫌は本格的なことにはならず、アルコールは昼間だからと釘を刺されたが、ホワイエのドリンクコーナーでコーヒーとサンドイッチを一緒に食べた。ただ、期待しているようだからと演奏者についてとパイプオルガンそのものについて長々とレクチャーされたのは嫌がらせも多少はあったのかもしれない。
 演奏は満足のいくものだった。低音は特に座っている椅子をも揺らすような振動で腹に響き、視界に入る肘掛においてある海江田の手が震えているのが分かるほどだった。いったん休憩が入ったが、立ち上がるのに船から下りるときのような、変なふらつきを感じた。
「ああ、やっぱり」
「何がだよ」
「いや、私もよくオルガンの生演奏では振動にやられる」
 酔ってもいないのに、演奏中のような床の揺れが足から伝わっているような気がしてなんだか落ち着かない。ざわめくホール内は演奏中よりも多くの音で満ちているが、体に響くようなものは何もなかった。それでも手をついたシートの背もたれにまだしびれのような感覚がある。なんだか釈然としない深町に、海江田は笑った。
「オルガンは全身で聴くものだから、それでいいんだ」
 溝口は泣くかもしれないが、と付け足した海江田の意地悪そうな笑みこそ、溝口が泣くんじゃないかと思われた。
 後半の演奏には少し慣れたのか、振動を感じるというよりは音楽を聴いているという気分になれた。海江田の好むクラシック曲=モーツァルト、と少なからず思っていた深町は、バロックのイメージの強いパイプオルガンを好んで聴いているらしいことが意外に感じられた。ちらりと左隣の海江田の様子を伺うと、軽く目を閉じてうっとりと演奏に聴き入っているようだった。
 約束どおりの美味い食事は、本当に美味かった。夕飯と言うには少し早い食事ではあったが、常に一日四食の身には違和感のない時間帯だった。周囲の客は女性同士が多く、食事ではなくお茶を楽しんでいるという様子だった。その落ち着いたイタリアンは、庶民的ではあったが多少雰囲気を考えて深町なりに控えめにしたつもりだったのに、それでもその量は周りの客を驚かしていたようだった。
「相変わらず良く食うな」
「美味かったからな」
 そう言われては、と苦笑した海江田は、深町にデザートのリストを見せた。食後のコニャックもお互いほとんど残っていない。甘いものを好んで食べるわけでもない深町は、コーヒーでも飲んで終わりにしても良かったが、食事を抑え気味にしていたのでもう少し食べてもいいかと思い直し、真剣な面持ちでメニューを睨んだ。
「お前にパイプオルガンって、意外だった」
 デザートが運ばれてくるまでの空いてしまった時間を埋めるように深町は最初に感じたことを述べた。食事中は演奏についてばかりのコメントを求められていたので、そんな話は出来なかった。
「似合わないか?」
「そんなことはないが」
 うん、とちょっと首をかしげた海江田が、こういう理由はおかしいかもしれないが、と前置きしてから返答した。
「あの、管ばかりで空気を調整しているところが似ていて好きなんだ」
 何に、とは訊かなかった。あの感じは似ているなと深町も思ったからだ。なんて情緒の無い、と我ながら思ったので口にしなかったのに、誘ってきた本人がこれでは気を遣ったのが馬鹿馬鹿しくなった。素直にそう言うと、海江田は声を立ててさもおかしそうに笑った。
 少し大きめのりんごケーキは、やはり美味かった。海江田はそんなに食べられないと言ってあっさりしたセミフレッドを頼んでいた。酒のせいで少し顔を赤くした海江田が冷たいデザートを食べているのを見ながら、そういえばと深町は気になっていたことを訊いた。
「お前、もしかして足、どうかしたのか」
 たいてい姿勢良く佇んでいる海江田が、本来座るはずの場所ではない花壇の端に腰を下ろしていたのが気になっていた。ベンチもあったが噴水からは離れていて、噴水前と言う約束を守るならば花壇しか座れるところはなかったが、常ならば海江田がそんな真似をすることはなかった。
「ああ、いや、足はなんでもないが、ちょっと疲れていたんだ」
「疲れた? 何してたんだよ」
 わざわざ待ち合わせにしたのが、別の用事があったからだというのは分かっていて、でもそれはプライベートだから訊くつもりは無かったのだが、流れで思わず質問してしまい深町は小さく舌打ちをした。海江田は眉間に皺を寄せた。
「行儀が悪いぞ……歩いたら意外に遠くて」
「どこから歩いたんだお前」
「千鳥ヶ淵」
 あのなあ、と深町は飲みかけたコーヒーをテーブルに置いた。千鳥ヶ淵からサントリーホールまでは4キロはある。奥まで行っていたのなら5キロ近いだろう。夜勤明けで13時半の開場前に着いている、しかもその前に1時間の散歩付ではほとんど寝ていないのではないだろうか。深町はふたたび舌打ちをした。
「行儀が悪いと言っているだろう」
 海江田は心底嫌そうな顔をして深町を睨み、コーヒーを一口飲んだ。表情を隠すように傾けられたカップに深町はもう一度舌打ちしたくなったがなんとか堪え、変わりにため息をついた。
「一人で行ってきたのか」
「ああ」
 恐らく言うつもりではなかったであろう、だが訊かれたら答えるつもりはあったらしい午前中の予定について、海江田はそれ以上を言わなかった。
 海江田が千鳥ヶ淵に行くのはいい。そこへ向かう気持ちも分からないでもない。だが、コンサートには呼ぶのに千鳥ヶ淵へは同行させない海江田の態度を、深町は無性に寂しく感じた。
「なんだよ、そっちも一緒に行っても良かったんだぜ」
 多少恨みがましくなってしまった言葉に、深町は自分で驚いた。なんとなく沈黙が降りたところへ、店員が空いたデザートの皿を下げにきた。ごゆっくりと言われたがまさか居座るわけにも行かずに店を出た。五桁に達したであろう会計は、誘ったのだからの一点張りで深町は一円も払わせてもらえなかった。
 だんだん遅くなってきていた夕暮れは、早い夕食後にもまだ訪れていなかった。口を利かない海江田と並んで歩きながら、深町は心の中で余計なことを言った自分を責めたり、水臭い海江田を罵ったりしていた。
「腹ごなしをしないか」
 あん? と首をかしげると、立ち止まった海江田が信号を指差した。
「あっちに渡ると千鳥ヶ淵なんだが」
 深町は無言のままその交差点へ歩き出した。少し慌てたような海江田が、ふだんよりも広い歩幅で追いかけてくる。横断歩道の前で、青にかわるのと海江田とを待った。ほんの数センチ低い肩が隣へきたのが視界の隅に入った。
「すまない。夜勤明けで悪いと思ったんだ」
「馬鹿野郎」
 深町は礼儀のように毒づいた。悪かったともう一度謝罪の言葉が聞こえた。昇進するにつれて別々になりがちだったが、まだこうやって並んで歩いていくことが出来る。その事実は思いのほか深町を安心させた。
 それがたとえたった数キロだとしても。