die einfache Fahrkarte

K.626

 海江田は雪山のようだ、と深町が言っていたが、山中は蛍光灯のようなひとだと思っていた。雪山のように厳しくひとを拒絶したりしない。彼に憧れ近づいていく自分は光に集まる小さな虫だが、海江田は近づくものを焼き尽くす強い炎ではなく、いつまでも近づけないくせに拒むわけでもない柔らかい光のようだと思っていた。
 常に周りを惹きつけながらもどこか脆い海江田の姿は、直視するには強すぎる光であるのに輪郭をぼんやりとさせる蛍光灯を思わせた。光を発しているもの、そのものは見えず、触れることも出来ない。山中にはそれがもどかしかった。
 だから、あの計画を打ち明けられた時は、海江田に信頼されているのだと、もしかしたら初めて強くそう思ったのだ。本当に海江田が必要としているのは自分ではなく、深町だとずっと思っていた。彼らの間に性的な匂いは一切無いが、それでもその絆は特別だとしか言いようが無かった。あの二人の間に入り込めるものは誰もいない―――常に深町に寄り添い、それが当たり前のような顔をして深町と笑いあう速水でさえも。その事実に、あの整いすぎた容貌の男が表情を曇らせることを山中は知っている。

 本庁に呼ばれ、帰ってきた海江田は、やつれていた。
 その姿は「お疲れ様」という一言ですらかけることを躊躇うほどで、しかし山中は数秒の逡巡の後、敬礼しながら「お疲れ様です」と声をかけた。
 ご苦労、と言いながら答礼した海江田の後ろについて艦長室へ向かう。この時点で制されなかったことに山中はほっととした。
 艦長室で上着を脱ぐ海江田に、お茶を用意して目の前に置いたが反応は薄かった。体調が悪いのか、何か重大なことがあったのか、恐らく後者だろうと思ったが、それならますます声をかけるのが躊躇われる。山中は下がったほうが良いのか逡巡し、結局動けずに海江田の前に立ち尽くした。
「すまない、山中、かけてくれ」
 やっと落ち着いたらしい海江田が、もう冷めているはずのお茶を手に取りながら山中に声をかけてきた。失礼しますと言いながら山中は海江田の前の席に着いた。お茶を淹れなおしたほうが良いだろうかと思ったが、海江田がそのカップから手を離そうとしない。そして、海江田は唐突に微笑んだ。
 そのあまりの穏やかさに強張る山中に、海江田は全てを話した。
「とても苦しいことと、とても嬉しいことが、同じものなんだ」
 海江田が本当に辛そうに言うので、この場にはふさわしくないかと迷いながらも少しでも気が紛れるならと思って山中は慣れない冗談を口にした。この空気に耐えられないのはむしろ山中だった。
「恋愛みたいですね」
 そのときの虚を突かれたような海江田の表情はそれこそ初恋真っ只中の少年のようで、忘れられない。これまで山中の知る限り海江田のそういう顔は深町がいるときにしか出てこなかったから。
「ああ、そうだな。そう、恋みたいだ。どうやら私は恋に落ちたようだ」
 海江田は計画に夢中だった。この先、まずは乗員を説得しなければならないという大きな関門が待ち構えているのに、海江田の心はもうすでに海にあった。うっとりとさえ見える表情は、荒れてはいるが自由な海を泳いでいる喜びの表れだった。性急過ぎる海江田の計画について、もう少し慎重になったほうが良いのではないかと山中はやんわりと制した。それに対する海江田の返答は意外なものだった。
「わがままになりきらないと夢は叶わないと、私は初恋の子に教えられたんだ」
「そう、ですか」
「彼女がいなかったら、私は今、行動できないでいるかもしれない」
 海江田に見えていたのは故郷の海だったのか、懐かしむような優しい瞳が山中を映した。その色が、だんだんと現実に戻っていって、いつもの粛々とした海江田の孤独な瞳の色になった。
「私は、私の考えやこれから起こそうとしている行動が間違っているとは思わない。ただ、お前たちを、間違わせてしまうことになるかもしれないとは思っている」
「艦長」
 私の命令どおりにこなしてくれればうまくいく、と常に自信に満ちた海江田が発したとは思えない弱気な言葉だった。そんなことはありません、とは言いきれず、山中は口を閉じるしかなかった。

 計画は着々と進められた。もとから機密ばかりの任務なので、海幕とのやりとりも最高機密として扱うだけですんなりと行われていた。それは独自の計画を進める上でも好都合だった。決行までもう後半年も無い、と乗員の緊張は高まっていった。
 帰り際、速水につかまった山中は、まだ帰れないという速水の愚痴を一通り聞きながら駐車場へ向かった。どうやらまた深町艦長と意見が合わなかったらしい。いつものことだが、その余波がこちらへくるのは堪える。特に、海江田の計画に取り掛かってからは。
 うーん、と伸びをして、速水は山中の車のボンネットに背を預けた。
「速水」
 背中が汚れる。そう続けたが速水は聞こえないフリをして目を閉じてしまった。山中はため息をついた。なぜか、この男と一緒にいるときはため息が止まらない。何もかも計画通りだとは思っているが、その日が近づくにつれ不安は大きくなっていった。そんなことはお構いなしに、速水は山中のペースを遠慮なく乱す。
「どうしたんだよ山中」
「どうもしない」
 言えれば苦労は無い。いや、言えばそのほうが苦労だ。山中はかぶりを振った。
 星が見えるよーと速水はのんきな声をあげている。ひとしきり吐き出してすっきりしたらしい。
 山中も空を見上げた。事を起こしたら、再び浮上してこんな星空を二人で見ることは無いだろう、と山中はこれから先の航海を思った。星空どころか浮上することすらないかもしれない。逆に日本からはとても見ることの出来ない星を見る日が来るのかもしれない。それは分からない。
 もし自分が、自分たちが途中でしくじって海の藻屑と消えたら、速水は嘆くだろうか、悲しむだろうか。
 その、どちらもないような気がする、速水はあの形の良い眉を寄せることすらしないかもしれない、そもそも死人となった時点で彼の興味からは外れそうだと思ったところで山中は苦笑した。
「何がおかしいんだよ」
 さっきまでの上機嫌などこへやら、ふてくされた速水がいまだに車の上に転がったまま山中を見上げていた。仕方なく、隣に並んで手をつき車に体重を預けた。何か言いたそうな速水の顔は見られず、愚痴られていたことも忘れて問いかけた。
「お前、艦長が何を考えているか分からない時はあるか?」
「いつもだよ」
「……なるほど」
 きっぱりと即答した速水の言葉は、そういうものだと捉えているようでむしろ清々しかった。
 何がなるほどなんだ、とむっとした声で速水が言ったが、山中は無視をして「俺はいろいろ分かっているつもりだったが、最近分からないなと思うんだ」と小さな声で言った。速水に弱音のようなものをこぼすのは、かなり久々だった。しょっちゅうブツクサ言う速水と違って、山中はなるべく何も言わないようにしていた。
 まだ冷える夜の駐車場で今更何を話しているんだと山中は自嘲気味に口元をゆがめた。珍しい山中の様子に戸惑っているのか速水はしばらく無言だったが、俺に分かるのはね、と前置きをして独り言のように話し始めた。
「『何か考えてるな』ということと『何か始める気だな』ということだけだよ。だけど俺はそれでも良いと思ってる。俺がなんでも分かっちゃったらクルーは全員置いてきぼりだろう。俺しか艦長にツッコミ入れられないんだから、俺が艦長に説明してくださいって言う状態じゃないとダメだと思うんだ」
 まあ、おかげで馬鹿馬鹿罵られるし殴られるんだけどね、と肩をすくめるがそんなことはまったく堪えていないようだった。
「そっちはどうなんだ? 海江田艦長はちゃんと解説付きなんだろう?」
「どうだろう。こちらに考えさせることが多い気がする」
「違うもんだね。俺も海江田艦長の部下になってみたかったなあ」
 あっさりと深町を見捨てるような発言に、山中は驚いた。速水は、深町の腹心であることに誇りを持っているのではなかっただろうか。
「なんだ、お前、艦長にそんな」
「あのなあ、海江田艦長に憧れない潜水艦乗りがいるか?」
「いや、まあ、そうだが」
「そうだろ? 俺は海江田艦長を尊敬しているし憧れている。でも一緒に海に出たいのは深町艦長なんだ。居心地がいいのも深町艦長。お前は違うだろ?」
「そうだな、俺にとっては、全部海江田艦長だ」
 だったらそれで良いじゃないか、ともうすっかり速水は全てを割り切っている。同じだ、と山中は思った。心に決めた相手、と表現してはおかしいだろうが、しかし山中は他に海江田への捧げるような気持ちを表す言葉を持っていなかった。
 ぱたぱたと、服を払いながらようやく速水が体を起こした。無理な体勢でいたからだろう、首や腰をひねっている。あまりにも予想通りの行動に、山中はまたため息をついた。くるりと向きを変えてこちらを見た速水と目が合った。
「今度の休み、暇だろ。気晴らしに付き合えよ」
 もしかしたら速水は、何も知らないなりに、少し焦りがちになっている山中の気晴らしをさせようとしたのかもしれなかった。もっとも誘い方はいつものとおり気まぐれで勝手で強引だ。こういうところが深町艦長と似ていると言ったら怒るのだろうが。
「……半日くらいしか時間取れないぞ」
「なんだ、それじゃ横浜の観覧車に乗るぐらいしかできないじゃん」
「嫌がらせかそれは」
「嫌がらせだよ」
 速水は全開の笑顔を見せた。速水はよく笑う男だ。ただでさえ美しい顔立ちが、微笑むと柔らかく輝く。昇進を重ねるにつれ若さは失われたものの、華やかさは健在だ。それが、深町の隣にいるときはなりを潜める。あくまでも深町の補佐に徹しているのだ。
 今、こうやってくだけた態度と表情でむしろわがままに振舞う速水を、深町は知っているのだろうか。
「絶対嫌だ。お前とふたりで観覧車なんか」
「じゃあジェットコースター」
「ああいうのは苦手だ」
「そうだっけ? 良かったな、海江田艦長の部下で」
「……」
「冗談だって。さすがにあのひともそこまでじゃないよ。あれで案外常識人だし」
「とてもそうは見えないが」
「見えないけどな」
 ははは、と速水は明るく笑った。深町の行動は大胆すぎるが良くも悪くも一直線であり、面倒見の良さや律儀さは確かに常識的だ。深町は回り道をしないだけだよという海江田の言葉はとても正しい。
 そして、これまで模範的だと言われつづけた海江田と、真面目で誠実だが面白みに欠けるとまで言われた自分が、これから果てしなく常識外のことをしようとしているのは皮肉のように感じられた。
 艦長のやることよりもそれに慣れてきた自分のほうがヤバイ気がすると言う速水の、それでも楽しそうな表情を見て、自分も海江田のやることをちゃんと受け止めて支えていきたいと心から思った。

 このところあまり珍しくなくなった、海江田がただはるか水平線を見る姿に、山中は声をかけた。哨戒員は海江田が下がらせたらしく艦橋には一人だったが、手元の双眼鏡が顔の位置まで持ち上げられる様子は無い。艦橋に上がることを許可する声は聞こえたのだから、まるっきりこちらを無視しているわけでもないようだが、心ここにあらずという様子は明らかに平生と違った。
 考え事をするときの海江田は、艦長室にこもる場合と海を見つめる場合と、二つのパターンがある。このところ多いのは海を見つめるほうで、冷え込んできた季節に艦橋に出てばかりいる海江田を山中は心配していた。考え始めると海江田は他のことには無頓着になる―――現在も半袖の夏服のまま上着も持っていない。
「冷えますね」
 あからさまなことを山中は言わない。自分も持っていた双眼鏡で海を見る。変わった様子は無い。自分たち以外は。
「特に変化は無い。何もかも順調だ」
「ええ」
 短く答え、山中は海江田を振り返ったが、海を見ていた自分には背を向けて陸を見る海江田がそこにいた。凛とした力強い見慣れた背中ではなく、少し寂しそうなその様子に山中は一瞬口ごもった。その一瞬の合間に、海江田が振り返り再び口を開いた。
「艦の状態も悪くない。山中は何か気になることがあるのかね」
「いえ、ただ、あえて申し上げれば」
 急に振り返った海江田に少し驚いて、山中は言葉を切った。ひとつ、大きな呼吸をして言葉を継ぐ。言って良いのか迷ったが、どうせ海江田に対して隠し事など出来はしない。
「艦長ご自身の事が少し心配です」
 海江田はいつもと同じように、ゆったりと微笑んだ。仕方ないな山中は、とでも言いたそうな表情だった。
「私には何も問題は無いよ。これまでにやるべきことはやったし、これからもやるべきことやるつもりだ」
「それでも、何か気にかかることがあるように私には見えます」
「本当に何も無いよ。今日だっていつもどおり食堂で深町と口論をして司令に呆れられて、昨日は袖のボタンが取れそうだったのに気づかなくて妻に笑われた」
 海江田はそのときの様子を思い出したのだろう、目を閉じて小さく笑った。そういう、なんでもないことがこの上なく大切なものであるのだと主張するように。
「あまり深町艦長ともめるのはおやめください。私も速水も困っているんです」
「悪かった。だが深町が」
 一度言葉を区切った海江田は、宇宙の果てでも見ているかのような遠い目をした。どこまでも真っ直ぐで、真っ直ぐすぎるその視線は、距離も障害物も関係無しにきっと深町を見ているのだろう。
「11月23日は空けておけと」
 急に声のトーンが変わった。思わぬ声の細さに、山中は身じろいだ。
「11月23日ですか」
 うん、と海江田はぼんやりと返事をして山中から視線を外した。広がる黒い海と黒い空が、これから先の航海を暗示しているかのように不気味に存在していた。だが、その先を進むことを海江田も自分も選んだのだ。何が待ち受けているか見えなくても、その先を見ることを望んでいるのだ。
「フルネが来日するんだ」
 思い出したように海江田がつぶやいたので、山中はそれが先ほどの会話の続きだと理解するまでに少々時間を要した。
「フルネ、ですか」
「うん」
 知らない名前だ。しかし、きっとクラシック関連なのだろうと山中は予想した。海江田にぴったりと寄り添っているつもりだが、お前はまだまだだと深町に言われているような気がした。
「去年、来日した時に一緒に行ったんだ。だがそのときはモーツァルトは振らなくて。今年の演目にはあったんだが日程がな、だから」
 海江田はまた中途半端なところで息を継いだ。聞き手の反応を確認しながら語る平生の様子ではなく、ただ思うところを吐き出すような、やや急いだ喋り方は、まるで海江田らしくなかった。
「何も言わなかったんだが」
 海江田はその一言だけ、やっと聞こえる程度の声で発した。それは、深町はヘヴィメタなんか好きなくせにクラシックはゆったりしたのを好むんだと、大切な秘密を告白するような様子で微笑んだ時と同じくらいの声の大きさだった。微かで、波の音に消されそうな密やかな音色だった。
 だが、あのときの楽しそうな表情とは違い、今の海江田は苦しそうだった。海江田は確実に果たせない約束を交わしてしまったのだ。深町の心遣いと、それを裏切ることに、海江田は喜びと苦しみをない交ぜにした切ない表情をしていた。
「今になって。ずいぶん前から取っていたんだろうが」
 深町らしいのかどうなのか分からないな。どうせ仕事で無理になるのかもしれないのに。
 自分自身に言い訳するように、海江田はぼそぼそと呟いた。あまりにもそれが海江田にふさわしくないように思えて、山中は少し腹を立てた。こんな、こんな海江田は。
「ですが」
「分かっている。これは仕方の無いことだ」
 そう返したときの海江田は、もうすっかりふだんの海江田だった。その姿に山中は安心し、またこれだけの変化をさせる深町を恨めしく思った。あの男は、同じ場所にはいないのにいつも海江田の心のどこかに必ずいる。
「だが、仕方が無いで済まされないこともある。それを、私はなんとかしたいのだ」
「はい」
 急に真顔になって真剣に言う海江田に、山中は姿勢を正した。海江田の言いたいことは分かっているつもりだ。そして、こうやって一番近くで海江田を支えられるのは自分だけだと、改めて感じた。

 数日して、バースを並んで歩く海江田と深町を見かけた。遠くからでも、明らかにお互いの距離が近いのですぐ分かる。何を話しているかは分からなかったが、先日の憂鬱な表情など忘れたように、海江田は楽しそうに笑っていた。本当はまだ心を痛めているであろう海江田の背中は、きっぱりとしていた。
 山中は潮汐表を眺めた。来年まで緻密に計算されている潮の干満と違って、海江田が計画している航海がうまくいく保証はどこにもない。
「確かに運と言うものはあるだろう。だが、運命なんてものは絶対にないんだ」
 そう言った海江田は、もし運命があったとしてもそれを変えるだけの力を持っているように見えた。そして山中は海江田を信じた。それだけのことだった。