die einfache Fahrkarte

Doomsday

 もうここにあの男はいないのに、つい後ろを振り向いてその名前を呼びそうになってしまう。納得して袂をわかつたつもりだったが、まったく慣れる様子が無い。それだけ常に彼が傍にいるのは本当に自然なことだった。日本へ帰ると申し出た部下を、引き止める言葉を深町は持たず、常に忌憚無い意見をぶつけ合っていた間柄だったのが嘘みたいに静かな会話を二言三言交わしただけで別れは決定した。
「残念です。彼にも頼みたい仕事はたくさんあったのですが」
 現在の状況では難しいと、大滝が渋るのを深町は期待していたのかもしれなかったが、かけあってみましょうと微笑んだ大滝はたったの二日で全ての段取りを整えてしまった。あっけない幕切れは自分から頼んだものなのに、もうちょっと何かあってもいいんじゃねえかと筋違いのことを思ったりした。
 帰国するその日の朝まで、速水は深町に忠実に従っていた。それはもう、初めて出会ったときからの変わらぬ姿で。もちろんお互いに年はとったし、さすがに最初はギクシャクしていたのだから出会ったときと同じではないのだけれど、速水のさりげない気遣いや率直な物言い、溌剌とした行動はもうずっと最初から同じだったんじゃないかと思えるほど心地よくこの身に馴染んだものだった。きっと速水は自分の半身なのだといまさらながらに深町は思う。
 海江田は親友なんて言葉じゃ表せないほど特別で、ああいう特別を表す言葉を深町は知らなかった。月と地球のように、太陽と地球のように、自分と海江田は影響しあっていた。海江田は厳しい雪山のように、また熱い夏の太陽のように深町を惹きつけ、進む方向さえ見失うほど存在は圧倒的だった。
 その海江田を失ったとき、引っ張り合っていた遠心力で自分がどこかへ行ってしまいそうな気がした。方位も時間も分からない深海に放り出された孤独な潜水艦が、浮上することも出来ずにさまよい続けていつか暗い海の底へ沈んでいくみたいに、何も出来ずにただただ終わりを遠くから眺めるだけのやるせなさだけが深町を支配していた。
 しかしながら幸いなことにその潜水艦には優秀な副長が同乗していて、指示を出さない艦長に代わって航行はなんとか続けられていた。呆れるほどに通常通りだった副長は、遠慮の欠片もなく深町の日常を管理し、甲斐甲斐しく世話を焼いた。そんな無為に過ごした日々の先にほんのぼんやりとだが深町には何かが見えてきて、知らず知らずのうちにたぶんずっと考えてきたことを、いまさらやっと思い出したみたいに心を固めた。ここからだ、さあついてこいと振り返ったらいつも寄り添っていた彼は半歩後ろにはいなかった。
 海江田を失うことも考えていなかったけれど、副官を失うことは恐らくもっと考えていなかった。その男は、強情で気が強くて意地っ張りで負けず嫌いで口が達者で可愛い顔して食えない男で、それでもどんなに文句を並べても自分の傍を離れることは決してなかった。あっという間にどこまでも突っ走りがちな深町を、行き過ぎないよう後ろから引っ張ったり程よく支えたり、自分が意図する以上にトリムを保ってくれる男だった。
 ついてこいよと言えなかったのは何故か。
 半歩後ろに控えているのが常だった速水が、迷子のような表情でずいぶん後ろから自分を見ていた。なにしてんだ、行くぞ、と言っていつものように肩を叩けば良かったのだろうか。こいつにはこいつの道があるのかもしれないなんて、そんならしくないことを考えずに強引に手をひいていれば、今でも彼は自分の傍で軽やかに笑っていたのだろうか。
 『たつなみ』のことは本当に気になっていて、決してないがしろに思っていたわけではなく、これ以上ない負い目だと感じていた。それを速水にだけ押し付ける気は毛頭なかったし、ただそっちはそっちでなんとかなると無理矢理思いこむことで、深町は海江田のいた横須賀を思い出すことを止めた。並んで停泊させた『やまなみ』と『たつなみ』の艦橋で、普通に喋ればいいものを昼間っから発光信号でバカみたいに口喧嘩していたら乗員どころか田所司令にまで全部見られていたとか、金曜でも無いのにカレーを食わせたら逆に自分の曜日感覚が狂って恥をかいたとか、そういうなんてことない思い出を、全部ひっくるめて記憶の隅に追いやって、未来だけを見つめることにした。もう終わってしまった海江田の物語を、強引にでも進めようとしたらそれしか方法は無かった。新しい仕事に没頭し、ニューヨークでまみえた海江田だけを海江田だと思っていればすべてやり過ごせる気がしていた。
 『やまなみ』を放棄した海江田を、あれほど非難したのにもかかわらず、俺は海江田と同じことをしている。
 自分は最善を選んだと、いつか思うときがくるのだろうか。腹心は去った。これは罰だ。
「深町さん、コーヒーでもいかがです」
 大滝が手渡した国連ビルのロビーで飲めるコーヒーは、速水が淹れるコーヒーの半分も美味くなく、あの美味いコーヒーを飲むことはきっともう一生無いのだろうと確信に近いものを感じた。太陽に当たらない潜水艦乗りらしい白い指が、コーヒーを淹れる手つきは思い出せるのに、そういうとき速水がどんな表情をしていたのかまるで思い出せず、はいどうぞと言う落ち着いた声だけが耳に残る。こういう他愛無いことのいちいちに、これからしばらく動揺する日々が続くのかもしれないと思うと馬鹿馬鹿しくて惨めだった。背後に気配があることが当然過ぎて、視線を感じるのが当然過ぎて、今は何かが物足りない。
「あの飛行機雲はもしかしたら速水さんの乗った飛行機のものかもしれませんね」
 窓枠に手をついて遠くを見つめながらひとりで勝手に喋る大滝を無視して、深町は中途半端に温いコーヒーを一気に呷った。速水の淹れるコーヒーはあんなにも美しい色をしていて飲むのが惜しくなるほどだったのに、他のコーヒーはまったくそんなふうには見えない。タールのような不気味な黒い液体が心の中まで黒く塗りつぶしていくようで息苦しく、深町は無意識に心臓のあたりを掴んだ。
『なんだろう? 形見分け?』
『なんで疑問系なんだよ』
『さあ? まあなんでもいいじゃないですか』
 前日の思いつめた様子とはうって変わって、何故かむしろ上機嫌に見えるほどの調子で荷造りをしていた速水は、冗談だか本気だか、私の代わりだと思って大切にして下さいよと上等そうな煙草ケースを押し付けていった。こんな洒落たもん使うかよ、という煙草をケースになんか入れたことの無い深町の反論は受け入れられず、腹の読めない笑顔と共に手の中に握りこまされた。開けてみればはっきり言って好みでは無い煙草が何本も入ったままで、嫌がらせかよお前、と苦笑すれば当たり前でしょとしれっと言い返された。
 その煙草ケースは、今は深町の上着の胸ポケットの中に仕舞われている。1本吸ってみれば、速水の纏っていたあの匂いや雰囲気が甦り、きっと気配まで感じられるのだろう。男のくせに髪がなげえんだよという自分に、口を尖らせながら似合いませんかと言った姿になんだか毒気を抜かれたのを覚えている。あの髪は清潔なシャンプーの匂いではなく、煙草とディーゼルと潮の臭いがしていた。だがそれはマッチ売りの少女のマッチが見せた幻影と同じで、ほんの一瞬の影絵でしかなく煙が薄れればよりいっそう強調された現実が戻ってくるだけだ。そしてこのケースには吸いまくって虚像に溺れられるほどの本数は入っていない。吸えば吸うだけ速水の残した欠片を失うだけだ。
 好みじゃねえから吸わねえんだ、と誰が知るわけでも無いのに苦しい言い訳をして、だったら捨てれば良いなんて選択肢は絶対に選べなかった。だからといって荷物の片隅に埋もれさせる気にもなれず、結局渡されたときなんとなく仕舞いこんだ上着に入れっぱなしになり、どうせ吸わねえんだしとわざわざボタン付きのポケットに移動した。
 無意識に胸を掴んだ指先に内ポケットの煙草ケースが当たり、その形をそっとなぞる。仕方ないなあ艦長は、と言う声が今にも聞こえてきそうな気がして深町は強く目を閉じた。忘れる必要も覚えている必要も無いのに、ある意味海江田との思い出よりも深い場所で痛む箇所を占めている速水の思い出は、深町が捨てた一切のものの重さを否が応でも意識させた。それでももう後戻りは出来ず、想像以上に重いそれを一緒に持ってくれる誰かもいない。ああ、もしかしたら海江田も同じようなことを感じていたのかと気づき、まだまだ自分は海江田に追いついていないと唇を噛んだ。
 そうやって前を向いて、じゃなきゃ笑われるだろ、なんのために俺は海から陸へ上がったんだ。
 初めて陸に上がった大昔の魚はいったいどうやってこの世界に慣れていったんだろうなんて、埒も無いことを思いながらもう一度煙草ケースを撫で、深町は海に背を向けた。