die einfache Fahrkarte

Doomsday

 このままずっとなし崩し的に時は過ぎていってしまうのかと、あの日をほんの少し振り返っただけなのに、その次の瞬間からはもうこれ以上ニューヨークにはいられないと脅迫されているかのような心持になった。窓の外に浮かぶ夜景の色とりどりの明かりさえ、自分たちを惑わす幻影のような気がして不安を募らせる。
「日本へ、帰ろうと思います」
 海江田が倒れてからずっと、速水は国連で働く深町の補佐を精力的に行っていたが、まったく日本を省みない態度にいささか腹を立ててもいた。退役・スクラップかもしれない危機に、自分の艦をほったらかしたまま陸に留まっている乗組員がどこにいるだろうか。航海長と水測長は帰したものの、艦長である深町と副長である速水はいまだニューヨークにおり、帰国のめどはたっていない。それどころか、世界政府樹立にむけて動き出してしまった深町は日本で待つ『たつなみ』と部下のことなど話題の端にものぼらせない。
「何しに」
 返答は案外短く、驚いているようだった。癖のある短い髪が、わさわさっと逆立つ様子が見える気がした。それでももしかしたら心の底では予想していたのかもしれない。それとも自分から離れるなんて本当にこれっぽっちも思わなかったのだろうか。きっとどちらでも自分のことを分かってくれていると解釈してしまう気がする。これまでずっと寄り添ってきたのだから。
「私は『たつなみ』が心配なんです」
 常に逸らさずにいた目を今回もしっかりと見つめながら、速水は深町に答えた。答えになっていない言葉をつむぎ、さああなたはどうするのだと言外に問いかけた。
 本当は速水にも深町は『たつなみ』へ戻るつもりがないことは分かっていた。
 深町が速水を呼ぶ「速水」という呼びかけは10年前からなんら変わらず、速水が深町を呼ぶ呼称だけが「艦長」から「ミスターフカマチ」変わっていた。それはここニューヨークでは深町は艦長ではなく、速水もまた副長ではなかったからで、いつのまにか「ミスターフカマチ」が定着していたことを速水はなにかとても恐ろしいことのように感じていた。
 艦長が、艦長ではなくなってしまう。
 実のところ深町は深町で、本人は深町洋であることが何か変わってしまったとはまるで思っておらず、速水は自分ばかりが焦っていることもまた分かっていた。なのに何故か何かが変わってしまったとしか速水には思えず、それは空気が知らない間に入れ替わってしまっているのに似ていてもどかしい。
 海江田艦長は、深町艦長を連れて行ってしまった。
 深い眠りについた海江田は、自身の夢を深町に託し、背を向けて去っていった。夢を、希望を、語るだけ語り、実現できる可能性を示すだけ示し、彼は舞台を颯爽と降りた。
 あのとき渡された手紙は、最も効果的に公開されるために国連特使である深町に渡されたが、深町はそれをただそれだけとは受け取らなかった。もちろん、特使としての責務は果たしたが、海江田四郎個人から深町洋個人へバトンを渡されたのだという思いが強く、あんなに好きだった海から離れた。海江田が陸に上がったニューヨークで、深町も戦場を陸に変えた。
 そのときはただどこまでも深町についてゆこうとそれだけで速水も深町を追い、わめく航海長と水測長を宥めて日本へ帰した。すぐ、艦長を連れて帰るからと。
 本当にすぐに帰るつもりだった。だって速水にとって帰るところは『たつなみ』で、深町にとっても同じだと信じて疑っていなかったから。
 何度目かの見舞いの最後に、「じゃあ」と言って席を立った深町は決して振り返らず、速水は当然のように後を追った。必ず「またな」と言っていた深町が「じゃあ」としか言わないことを不審にも思わず、いつもと同じように深町の左半歩後ろにピッタリとくっついて。
 だが、その晩深町は速水に何も相談せず大滝に連絡を取って世界政府樹立の手伝いをすることを申し出た。大げさに喜んだ大滝は翌朝自ら迎えにあがり、その時点で深町の考えを知った速水は愕然としたものだ。そしてそれっきり深町は海江田の病室には寄り付かず、日本の話もしなくなって、ただただ世界政府への夢を追って今に至る。そのうち凍り付いていたニューヨークがだんだんと溶け出していくように温かくなり始め、海江田艦長は静かに、本当に静かにこの世を去った。ほんの数週間のことなのに、変わってしまった深町のその姿は速水には痛々しく感じられ、早く日本へ帰っていつもの艦長にもどして差し上げたい―――しかし、多忙を極める深町はそれはそれは楽しそうで、傍にいる速水には深町がどんなに充実しているか分かってしまった。
 だからこそ日本へふたりで帰りたい。あなたのいる場所は『たつなみ』で、ニューヨークではないのだと何度も言ってやりたい衝動に駆られた。
 しかし同時にそれはもう無駄なのだということも良く分かっていた。子どものように目を輝かせた深町を、思い通りに動かしたことなど一度も無い。深町は日本へ、いや『たつなみ』には帰らない。
 深町艦長は、海江田艦長に連れて行かれてしまった。
「そうか。俺も、気になっていなかったわけじゃないんだが」
 もっと気になるものがあった。
 そういうことなのだろう。『やまと』は依然沈んだままであったが、山中らを乗せたタービュレントや他の原潜も遠い海の底へ姿を消し、海江田の肉体がニューヨークから消え、もうこれで深町の心を留めるものは無いと思ったが、それはとんだ見当違いであったことを速水は知る。『たつなみ』一家の『おとうさん』だった深町はもうどこにもおらず、『おかあさん』だった速水だけが子どもたちの心配をしている。
 おとうさんには家族より大切なものが出来たのよ。
 そんなドラマみたいなセリフが思い浮かび、速水はかぶりを振った。夫婦でもないのに離婚騒ぎか。それでも深町の妻よりもずっとこの男の近くにいたいう自覚と自負が、速水にはある。10年、10年だ。副官として配属されてから、もうこの人以外の下で働く気はしなかった。いずれ深町の昇進か自分の昇進で別れる日が来ることを、予想は出来ても想像は出来なかった。
 そしてもちろん、こんな別れはまったく意外で、意外というより心外だった。もっともそれは深町と海江田の別れにも言えることなのだったけれど。
「自衛隊はいまだに国連に預けられていますから、こちらにいても日本にいても同じといえば同じなのですが」
 なぜか出てくるのは言い訳めいた言葉ばかりで、自分だって悩んで悩んで深町に伝えた希望だったはずなのに、悪いことをしているような気がしてくるから不思議だ。本当はやはり自分は深町の傍を離れたくないのだろうと速水は思う。
 そうか、と同じ言葉を繰り返した深町は上着のポケットに手をやって少し顔をしかめた。海江田の病室を後にしてからほとんど吸わなくなった煙草は、ポケットから部屋の引き出しに住処を移していた。速水はソファから立ち上がってテーブルの引出しから煙草とライターを取り出した。
「わりぃ」
 一本渡してライターを近づけると、相変わらずなんのてらいもなく深町は顔を寄せて短く煙を吐いた。テーブルの上に置いた煙草を取った深町が、いるかと差し出した一本を受け取って自分で火をつけ、速水も久しぶりの煙に酔った。深町の煙草は速水の好む銘柄よりもずっときつくて重く、速水はわずかに眉を寄せた。しばらく放置されていたその煙草は、湿気ていて深町にとっても決してうまいはずは無かったのに、深町はいつも以上に深く煙を吸い込んでいた。
「いつ帰るんだ」
「まだ決めてません。というか、希望したからといって帰れるのかどうかも」
 深町の中ではあっさりと帰ることが了承されてしまい、拍子抜けしまた悔しく切なく速水はまずい煙草を吸い込んだ。喉の奥と目の奥が痛むのは煙草のせいだ。結局ずっといついているホテルの灰皿に灰を落とし、深町の前において再び上司の真正面に座りなおした。
 強引に『やまと』に乗り込んだときはね、本当にあなたとともにどこもまでも行くつもりだったんですよ。
 一瞬たりとも離れてはいけないと思って助けに戻ったんですよ。
 そんな、今となってはどうだって良いような言葉が浮かんでは消えた。いつだって傍にいなければ役には立てないと、文字通り命懸けで必死に後を追い続けたけれど深町は速水を必要としたことはなかった。少なくとも速水にはそう思えた。俺は一体何をした?何をしていた?
 海江田の友として、国連特使として、潜水艦乗りとして、深町は己を律し俊敏に行動していた。まるで海江田艦長が乗り移ったかのように。それは確かに深町の姿だったけれど、何か違うものを速水は感じ、うろたえている間にひと段落してしまった。そして知らない間に深町は新たな決意をし、大滝や国連職員と混じってしまった。それがとても自然であることのように、深町はどんどん先へ進んでいった。何かを始めた艦長の後姿を追いかけていくのはいつものことだったけれど、覚悟の定まっている者といない者の間には確かな差があり、見慣れた広い背中は知らない他人のようだった。
「明日、大滝議員に相談してみるか」
「ええ。お願いします」
 それっきり会話は途切れた。何だか白々しい会話はいつも本音でぶつかるのが身上の深町、いや『たつなみ』の姿とはまるで違った。もう取り返しのつかない何かがふたりの間に横たわってしまっているのを、深町も速水も全身で感じていた。ふたりで過ごす最後の時間を計っているかのように、残り数本だった煙草をゆっくりと、出来る限りゆっくりと吸い、部屋に満ちていく紫煙はますますお互いの思考を隠していった。
 見送りは全部断って、たったひとりでJ・F・ケネディ空港から日本へ向かった。目立つ制服ではなく、ニューヨークで買い求めたシンプルな私服に細身の体を包めば、この服を一緒に選んだ深町の笑顔が思い出された。とるものもとりあえずやってきたニューヨークで増えた荷物は最低限度を選び、残りは未練たらしく深町に押し付けてきた。きっと処分できないだろうと踏んで荷物を残し、最後まで可愛げのない部下を演じた。
 ゴーゴーとけたたましい音で飛んでいる飛行機は、深海に潜んだ潜水艦よりもずっと揺れて不安定で、まったく今の自分の立場のようだと速水は自嘲気味に口元をゆがめた。サービスされたワインを飲み、ビジネスクラスのリクライニングを倒して寝る体勢に入る。眠って全て忘れてしまい、起きたときに着いた日本では何事も無かったかのように思いたかった。
 少しずつ意識が遠くなる中で、少し傾けた目線の先に広がるのは厚い雲に覆われた空だけで、渡っているはずの太平洋は少しも見えず、艦橋から見る空と海はあんなにも同じ色をして溶け合っていたのに、上空から見える景色はちっとも海と似た色をしていなかった。